北朝鮮での生活の様子を撮影した写真

北朝鮮で実態に何が起きているのかは分かっていません。その国境を越えた人はほとんどいないからです。実際、北朝鮮に暮らす国民でさえ金正恩による闇に包まれた政策について知らされてはいない部分があるのです。ですが、一部の大胆な人々が、そのベールに包まれた彼らの生活を覗き見ることに成功しました。あるイギリス人フォトジャーナリストのおかげで、私たちは北朝鮮の隠された領域、つまり金正恩がおそらく見られたくないと思っている秘密を見ることができるようになりました。

実際あなたが、なんらかの手段で、北朝鮮に入国できたとしても、彼らには見せられないものが沢山あるのです。観光客には観光地の先々で、付き添いが付き、地元の人々と自由に交流することは許されていません。なぜなら、彼らは秘密を漏らされては困るからです。また、北朝鮮の建国者である金日成とその息子である金正日の銅像の前でお辞儀をするなど、奇妙な儀式に参加しなければならないこともあります。彼らは金正恩氏の祖父と父にあたる人物です。

ですが、このような規制にもかかわらず、ソウルを拠点とする写真家エド・ジョーンズ氏は、飾り気のない有様が写された写真やありのままを映したストリート写真の数々を持参し、北朝鮮から帰国することができました。彼は、雇用主であるフランス通信社が北朝鮮の首都平壌に支局を開設して以来、北朝鮮のジャーナリズムの限界に挑戦し続けています。

このような写真をお届けすることができるのは、ジョーンズ氏のおかげなのです。あなたは北朝鮮が比較的新しい国であることを知って驚かれるかもしれません。また、あなたの年配の親戚は、北朝鮮がいつできたかを覚えているかもしれません。北朝鮮は、1945年にアメリカが朝鮮半島を2つに分割した際に、自治権を持つ国家として誕生しました。韓国はアメリカの管理下にありましたが、北朝鮮はソ連の管理下にありました。ところで、ニュースでよく話題になる非武装地帯がどんな区域であるか知っていますか?両国の間には160マイル(約160km)の非武装地帯があります。

この非武装地帯は、1953年の朝鮮戦争の休戦中に作られましたが、信じられないことに、技術的にも法的にも昔のままに保持されているのです。そのため、北朝鮮は強大な軍事力を持っています。実際、約900万人の現役、予備役、準軍組織を擁する朝鮮人民軍は、世界最大の軍隊の1つであるといえます。

そして、北朝鮮には非常に恐れられている核兵器計画があります。当然のことながら、それには費用がかかり、市民にとっては危険な代償となっています。2019年にBBCの取材に応じたヒューマン・ライツ・ウォッチのブラッド・アダムスは、まさにその方法について説明しています。アダムスによると兵器開発の予算は、"飢えた北朝鮮の人々の胃袋から食料を奪う "ことで得られているというのです。

この全体主義国家での生活は、確かに厳しいものがあります。だからこそ、愛国心を煽り、苦しいときでも体制に固執するような公的儀式が行われているのかもしれません。このような行事では、たくさんの国旗が振られることがあります。少なくとも、それは北朝鮮が世界の多くの国と共通している点だといえます。

北朝鮮の軍事パレードでは、韓国の伝統文化の色やシンボルを取り入れることがあります。そして、上の写真には、喜びに満ちたものがあります。このピンクの花はきれいですね。しかし、何を祝っているのかを忘れてはいけません。カモフラージュされたトラックに乗っている巨大なミサイルを見れば、分かるでしょう。

ジョーンズ氏は2016年にAFPのブログで、「北朝鮮のイメージといえば、おそらく何千人もの顔と足が完全に同期して動く大規模な軍事パレードが思い浮かべることでしょう」と書いています。しかし、これらの集会はパフォーマンスでしかなく、演出されたものであり、現実よりも象徴的なものなのです。また、これは、毎日行われるものでもありません。では、平均的な北朝鮮人の生活は実際にどのようなものなのでしょうか?

男性たちは、国家の投資資金の大半を占める重工業に従事しているかもしれません。この写真に写っているのは、日本が朝鮮半島を支配していた1939年に建設された「チョリマ鉄鋼団地」で働く男性たちです。平壌の南西に位置するチョリマは、8,000人の従業員を擁する北朝鮮最大の製鉄所のひとつです。

その他の国の産業としては、鉱業、食品加工、繊維製品などがあります。実際、衣料品はこの国で最も収益性の高い輸出品と言われています。上の写真の女性は、平壌にある金正淑製糸工場で働いています。この工場は、金正恩氏の祖母にちなんで名付けられました。もしも国境を越えることが許されたならば、あなたも訪れるかもしれない場所だといえます。ジョーンズ氏は、この製糸工場を「外国人ジャーナリストや観光客の旅程には欠かせない場所」と表現しています。

一方で、この女性の職業は何だと思いますか?彼女は、平壌だけで300人以上もいる交通警備員の1人です。この仕事の特徴は、26歳で強制的に退職させられることです。ジョーンズ氏によると、これは「訪れる観光客やジャーナリストのお気に入りの被写体となる、写真映えする若い女性を定期的に職務につけさせるため」だそうです。

この話を聞いて「なんだか性差別的である」と感じた方は、もう気づかれたかもしれません。北朝鮮の男女関係は少し複雑なものなのです。北朝鮮には、女性の労働権や結婚・離婚に関する規定など、女性を助ける法律があります。また、女性は男性と競争してトップの仕事に就くことができますが、高給取りのポジションでは男性従業員が女性従業員を大幅に上回っています。つまり、いくつかの改革がされたにもかかわらず、この国はかなり家父長的なままなのです。

ですが、水面下では静かな革命が起きているかもしれません。ある研究者によると、ここでは、ほとんどの家庭で女性が主な稼ぎ手になっているようです。実際、女性の給料は、従来の男性の給料の2倍にもなっているのです。彼女たちの中には、夫のことを「ペット」と呼び軽蔑的に見下す人がいるのも不思議な事ではありません。

次にレクリエーションについてです。北朝鮮の人々は、たまには楽しいこともします。上の写真は、南浦(ナムポ)市の近くにある観光名所、西海バリュージビーチで撮ったものです。この写真に写っている人たちは、カメラに向かって笑顔を見せるように要請されているのかもしれませんが、ここでは本当に楽しんでいるように見えます。

実際、金正恩氏は国内の娯楽施設を改善しようとしてきました。独裁者である彼は、遊園地、ウォーターパーク、乗馬クラブなど、数多くの新しい施設を建設しています。上の画像は、2015年に平壌の「民俗公園」で撮影されたもので、馬の模型に乗って写真を撮っている男性の姿が確認できます。

ですが、ジョーンズ氏の最も興味をそそるストリート写真は、人里離れた場所で撮影されたものです。例えば、この写真はその一例です。これは、海岸沿いの都市ハムフンの郊外で撮影されたもので、未舗装の道路で自転車を押している人々が写っています。彼らは仕事に向かう途中なのでしょうか。

この画像は、沿岸部の都市チョンジンの通りを写したもので、密集した屋根の上に煙突がそびえ立っています。鉄の都市と呼ばれることもあるチョンジンは、この国で3番目に大きな都市となっています。ここには車の製造、造船所、製鉄所などがあり、産業の中心地となっています。

ジョーンズ氏の写真では、北朝鮮の生活について驚くほど多くのことを確認することができますが、まだ沢山の事が隠されていて、記録されていないのも事実なのです。例えば、北朝鮮にはいくつかの収容所があることが知られており、そこで何が行われているのかは正確には分かっていませんが、いくつかの情報が漏れています。伝えられるところによれば、そこでは、拷問、奴隷労働、飢餓、栄養失調、秘密裏の処刑などが日常的に行われており、かなりひどい状況にあるとのことです。これらの収容所には、約15万人から20万人の政治犯が収容されています。

世界がますますつながっていく中で、北朝鮮は依然として孤立しています。核兵器が侵略者から彼らを守ってくれるかどうかは別として、この国が本当に近代化するためには、外部の人々に門戸を開かなければならないのです。これらの写真が真実であるならば、北朝鮮はより開かれた外交的立場を求めて、ほんの少しだけ変わり始めているのかもしれません、実際そうであることを願うしかありません。

北朝鮮をよく知るアメリカ人がいました。アメリカ軍のチャールズ・ジェンキンス軍曹は、1月の寒い夜に朝鮮半島の国境で、自分の持ち場から逃げ出そうと必死になっていました。そこで、ジェンキンスさんは、秘密主義国家の北朝鮮に迷い込み、そこで彼は最も困難な状況に陥ることになりました。暴行や屈辱的な仕打ちを受ける中で、彼は人生のすべてを変える女性と出会います。

ジェンキンスさんは、1940年2月18日、ノースカロライナ州北部の町、リッチ・スクエアで生まれました。彼が若い頃、アメリカはベトナム戦争の真っ只中にありました。ジェンキンスさんは、多くの同時代の人々と同様に、アメリカ陸軍に入隊しました。

彼はベトナムの最前線に送られることを逃れることができました。その代わり、彼は韓国に駐留し、共産主義の北との国境を監視する任務に就いたのです。実際、彼は、比較的安全な場所に配属されたとはいえ、将来への不安を抱えていたのも事実でした。

1965年1月、ジェンキンスさんが24歳のときのある夜、その不安はついに頂点に達しました。勤務中に銃で撃たれるのではないか、ベトナムでの戦闘に配属されるのではないかという恐怖から、彼は酒に酔い潰れました。そして、酔っ払って絶望感に襲われた彼は、ある覚悟を決めました。

ジェンキンスさんは米軍兵士として、この計画の危険性を十分に理解していました。もし、味方に捕まれば、残りの人生を獄中で過ごすことになるからです。それでも彼は、北朝鮮を経由してロシアに行き、政治亡命をしようと考えたのです。

皮肉なことに、この決断が別の意味での投獄につながることになりました。「私は、一時的に避難しようとしていた国が、文字通り巨大で狂った刑務所であることを理解していませんでした」と、後に2009年に出版された伝記『Reluctant Communist』に書いています。「一度そこに入った人は、ほとんど出られないのですから」

実際、ジェンキンスさんは北朝鮮への入国を決断したことがきっかけで、その後40年に及ぶ試練の始まりとなりました。すぐに捕らえられた彼は、他の3人のアメリカ人脱走兵(ラリー・アブシアー、ジェームズ・ドレスノク、ジェリー・パリッシュ)とともに、ひとつの部屋に閉じ込められました。

そこで4人は、電気も暖房も使えない質素な生活を強いられたのです。さらに、アメリカ軍に向けた北朝鮮のプロパガンダ政策にも利用されていました。ジェンキンスさんの収容所には、かつての仲間が豪華で裕福な生活をしている様子を描いたパンフレットが送られてくるようになりました。

また、ジェンキンスさんをはじめとする脱北者たちは、当時の北朝鮮の指導者である金日成の教えを10時間に渡って教え込まれました。やがて、7年間の監禁生活を経て、彼らは自分の家に住むことを許されました。

しかし、自由になったとはいえ、ジェンキンスさんたちは24時間体制の監視に加え、定期的な拷問や暴行を受けていました。仕事としては、英語を教えることを強いられていましたが、ジェンキンスさんはカロライナ訛りが強かったために仕事を失いました。

さらに、彼らは金正日総書記のプロパガンダ映画への出演を命じられました。北朝鮮の指導者の息子である金正日は、映画作りに夢中になり、精巧な作品を作ることで父の賞賛を得ようとしました。亡命者たちは、悪のアメリカ人という役柄で、北朝鮮の銀幕のスターとなったのです。

そして1980年、また新たな命令が彼に下されました。ジェンキンスさんは結婚するよう命じられたのですが、その花嫁はすでに決められていました。花嫁は、ジェンキンスさんとは21歳違いの曽我ひとみという女性で、日本の西海岸に位置する佐渡島出身の看護師でした。

曽我さんは2年前、日本にいた工作員に拉致され、本人の意思に反して北朝鮮に連れてこられたのでした。そこで彼女は、スパイ志望者に日本の言葉や伝統を教えるという任務に就いていました。若くて美しい彼女は、15年間一人でいたジェンキンスさんにとって救いとなりました。

そして、ジェンキンスさんと曽我さんは、彼らに果たされた過酷な運命にも負けずに恋に落ちました。やがて曽我さんは、ミカとブリンダという2人の娘を産むことになりました。ジェンキンスさんは、娘たちが成長するにつれ、彼らがスパイとして育てられているのではないか、北朝鮮政府が娘たちの西洋的な外見を利用しようとしているのではないかと疑い始めるようになりました。

そして2002年、すべての状況が変わりました。その頃、金正日は父親の後を継いで北朝鮮の指導者となっていました。金正日総書記は公式発表で、これまでに13人の日本人を拉致したことを認めました。そのお詫びとして、生存者5名を10日間の短い滞在期間ではあるものの、帰国させることにしたのです。

曽我さんはその訪問者に選ばれはしましたが、夫と娘を残して帰国しなければなりませんでした。そして、生存者が日本に残ることになったとき、家族はバラバラになってしまいました。ジェンキンスさんは脱走兵であったため、妻の後を追おうとした場合、身柄を引き渡され、終身刑になる可能性があったからです。

最終的にジェンキンスさんは、家族との再会を切望し、危険を冒してでも旅をする価値があると判断しました。まず、娘たちを連れてインドネシアに短期旅行する許可を得ました。そこで曽我さんと出会い、一家は一緒に日本の安全な場所へと逃げたのです。

2004年9月11日、ジェンキンスさんは東京近郊の米軍基地に到着しました。スマートなスーツ姿の彼は、憲兵隊員に声をかけました。「私は、ジェンキンス軍曹ですが、報告いたします」と告げたといいます。彼は40年近くも無断で任務を怠っていたことになり、アメリカ史上最長期間、脱走をしていたことと見做されました。

脱走の罪を認めた後、ジェンキンスさん30日間の懲役を言い渡されましたが、25日間だけ服役しました。ようやく自由の身となった一家は、佐渡島に移住し、ジェンキンスさんは観光地の公園でクラッカーを売る仕事に就きました。今ではすっかり地元の有名人となったジェンキンスさんは、テレビで見たという観光客からよく写真撮影を頼まれるようになりました。

2017年12月11日、ジェンキンスさんは死の間際まで自由の身であり続け、この世を去りました。ジェンキンスさんは、常に誘拐犯に怯えながら生活していましたが、最終的に家族を脱出させることができたことを誇りに思っていました。彼が、もしもお見合いをしていなかったならば、北朝鮮から離れることはできなかったかもしれません。